とあるブログを読んでいると、コメントにこのようなことが書かれていた。
「こんなクソ記事のせいで検索結果は汚れ、ノイズが増えていく。
ネットはどんどん使いにくいものになっていく」
私は吃驚仰天した。
ネットに公開した情報が「記事」という単位で数えられるようになって久しいが、今はそのような共通認識になっているのか。
インターネットには正しい情報のみが存在しなくてはならないのだろうか。
当然守るべきルールはある。
法律は順守していないといけないし、一般的な道徳や倫理観に逆らう内容を掲載するのもいただけないだろう。
だが、そのルールを守っていれば、どんな情報を発信しても良いのではないだろうか。
誰かには全く役の立たないクソ記事に見えても、別の誰かには新鮮で役に立つ情報かもしれない。
いや、それ以前に人に役に立つ情報じゃなくても、いいんじゃないのか。
一昔前はそれこそ、自分のプロフィールやら、家族の情報やら、好きな趣味や漫画を紹介したり、そんなコンテンツをシコシコと作成してはホームページとして公開していたのだ。
自己満足にしかなりえないコンテンツをインターネットで配信しても、いいんじゃないのか。
それがインターネットだと思っていた。
検索結果がなんだというのだろう。
何故、インターネットを利用する者達が検索結果の精度を上げるために協力しあわないといけないのだろう。
それは、検索エンジンを抱えるGoogleなどが企業努力として行うことではないのだろうか。
検索精度が高ければそりゃ便利でしょう。
求めた問いに対する的確な答えが求められるのならばそれは素晴らしいことです。
でもそれはただの計算機と一緒なのではないでしょうか。
しかるべき情報が得られるだけで、新しい発見はない。
電子辞書というものが普及しだしたころ、こんな懸念の声があったそうです。
電子辞書は便利だが、調べたい言葉を入力すると、一足飛びにその情報のページへ飛んでしまう。
本の辞書の場合は、そのページを探すまでの間にパラパラと目に飛び込んでくる情報にふと目を止めて読んでしまうという、新しい知識を得る発見と楽しみがあった。
電子辞書が普及してしまうと、その楽しみが失われてしまうのではないだろうか。
インターネットも似たような感じがしますね。
今どきネットサーフィンといっても、決まりきったCMSで生成されたサイトをぐるぐる巡るだけで、ただの定期巡回ですよね。
そんなことは機械にやらせておけばいい。
自らで検索エンジンも使わず、こんなWebサイトがあったのか、と発見する楽しみがあっても良いのかなと思う。
そんなどうでもいい情報がインターネットにはたくさんあっても良いと思う。
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